揺籃

生きてることをつなぐため

2018年

livetube.ccが閉鎖(サイト自体は今でも残ってるが、)して、geocitiesも来年終わるそうだし、某所が消えてしまうのも見た。

geocitiesは十代後半に、曖昧な情報ふくめて、読んでいた本、SNS、もぞくりやゆめにっきみたいなものも一緒にそのときの自分を形作っていて、

instapaperに丸投げになってる"貪りたかった情報"、未来が長すぎることと何も知らなさすぎることで価値のある情報でもあって、

そうしたものもやはりいずれ消えてしまうのだと、だから本当に自分の血や肉として得るしかないのだと思う

ダークウェブは居場所のない人間がことばを持つことのできる場所で、

インターネットが、変遷しても、やはりどこかに地下的な場所はあるし、ダークウェブも、ダークウェブ内でもそうやってどんどん場所を移してる

消滅したものは、サイバーパンクのがれきに埋もれて消えたことにしたい。

 

色々あって墓参りに行かなくなって、墓参りは家族と出かける理由のひとつだったから、そこへもう行かないのは寂しくもあった

祖母に会うたびに"私のことはもう覚えていないのではないか"と思っていたが、祖母に何度か会って、私のことを覚えてくれていて嬉しかった。

飼い猫を撫でて、ごろごろとこたえてくれるのも嬉しいこと。ありがとうと思う。

姉は友人のようでもあったから数年前に姉が結婚したのは友人がいなくなるようで悲しく思ったが、いま、姉が近くにいて、その姉の姿を見ていると姉の夫のことを嫌だとも思わなくなった。

運転免許証の証明写真の写りがひどかったり、夏場にポケモンGOにはまっていたりして、外見に少し気を使うようになった。

数年越しで『重力と恩寵』を読み終えた。ヴェイユドストエフスキーが最愛。

 

2018/03/05 20時間睡眠とその間の夢

居間、姉が全裸でソファに座ってる、姉は高校生くらい、両腕は猫にひっかかれた傷でミミズ腫れ、首下から胴にかけてぼこぼこに膨れあがってる、なにかの病気のよう、お笑いコントにある筋肉もりもりな人の着ぐるみを着たような膨れあがり方と歪さ
姉はいそがしい様子、運動部かなにかの委員会の集まりがあって姉は無頓着ではあるが周囲から色々と任されていていそがしい
制服姿の由希、マフラーしてる、家の居間、がっこうのよう、明日最後だから早く来て会おうね、といって手を振って帰る、うん、わかった、と頷きつつ手をあげて返事をする、由希がいなくなってからあまりのかわいさに壁に向かって悶える
スーパーの食品コーナー、なかで魚を捌いてる人がみえる、家族、寿司を食べるという話だが話がまとまらない、値段をみて一貫100いくらでこれならかっぱ寿司でいいからかっぱ寿司にしようと父親がいう
どうぶつの森の世界のなか、どうぶつの森風の木が茂ってる、雨の日、川沿いで釣りをしてる、ゲコという名のカエルが釣れる、図鑑に埋まっていなかった、
ラニアが釣れる、釣り上げるが、釣り針への食いつきが強過ぎてノコギリで切り離す、飼い猫がお腹をすかせて自分の周りにまとわりついてる、切り離したピラニアを食べてしまう、
食事の時間ではないし餌ももっていないので飼い猫のおねだりを無視してる、痺れを切らした飼い猫がいきなり川へとびこんで水中にいるフナを丸呑みにし始める、泳いで魚を狩ってる、こわい、ピラニアはやめて
母親に報告する、うそぉ、○○(飼い猫の名前)死ぬね、とこたえる

起きて、もう一度ねむって、

ドラマの七瀬ふたたびみたいなシリアスな雰囲気、草むら、柵があって空き地のような荒れた場所、だれかを追いかけてる?もしくは追いかけられていて、下水道のパイプの上を駆けていく、
壁をぶち破った先はウォータースライダーになっていて、そのまま滑り落ちていく、だがそれは実は巨大な流しそうめんでバケツか桶のようなそうめんだらけの入れ物に着水する、
そこはそば屋だった、閉店するそば屋が多い現代でこんな庶民的なそば屋が営まれてるのは不自然で、ここは今ではない過去であることが分かる
自分の部屋、この家の建築図、父親が、配線なども全部きめた
布団で寝てる、壁紙がはがれる、エメラルドの壁紙がはがれる
ファミレス、二十代中盤くらいの男性3人組、すでに耄碌とした老男性の店員を呼びつけて、(かれらがたべてるラーメンの)替え玉あるか、と聞いてる、耳の遠い老人と話すときのやれやれという小馬鹿にしたような態度
その様子を陰から老店員の孫が見てる、壁の角から顔だけをだして覗いてる
3人組が、替え玉をやりたいがスープが少ししか残っていなくて、そうか、替え玉の量を減らしてもらえばいいのかと大発見のように気づいて盛り上がってる、もう一度老店員を呼ぶ

 

石川佳純cが夢にでてきてしばらく胸が苦しかったのを思い出した、振り返ればいくらでも後悔してる
でも過去には関与できないからヨンム・カークスのセリフかのごとく、未来と同時に過去をも決定するしか選択肢はない
希さんについてもマツダさんに会わなかったことについてもそうだ、じぶんの思っていることをもっと言葉として話せば、話せられれば
シャイで怖かったしそれは今でも変わらないと思う
由希と結ばれていたかもしれない、
良好だった、でも自分がすべてで相手のことを考えなかった、
ネットも、自分が好きなときにネットの世界につないで、好きなときに切断する、リアルのように直接見えているわけではないからどうしても相手のことは想像しづらい
どういう思いで私を誘ってくれたのか、こたえるのは自分、そして自分は自分がシャイで自信に欠けるがために断る
後悔してる。街中は、色々な人と歩いた。浮いた人だと思われたくもなかった、恋人との関係がだめになった後すぐに別の人のほうを向くのが最低だと思った
定期的にみる、象徴としての魚の夢と、今の自分が飼い猫におびえているということ
夕方に餌を与えるのも稀になって、かまってあげることもあまりなくて、
扉の前で私を呼ぶ存在がいなくなったらどうなるか。
壁紙がメリメリと剥がれる夢を見てそう思った

2017年

結局何もしていない一年だった。ゲームやったり、アニメ見たりとかでコンテンツを貪りながら時間を消費してるかんじ、
ここ6〜7年くらいでいちばん本を読まなかった年。
らいつべとかオンラインゲーム内でのコミュニティに属してるっていう感覚が強くなった、同時に自分が配信する側にまわってみたいと思ったり、もっとその輪のなかにいたいとも思った、だけども、無職であることが突っかかって自分をさらけ出すのがこわくて結局何かをすることはなかった。
それ自体はよくても自分が割り切れていない。
何もかも余裕がない、

ゲームするにしてもPCスペックが足りなくなってきてるというのを感じるし、ひもじいなかでゲームしたくないから、働くしかないのだろうと思う
変わらずというか、実際そう、去年の延長のような一年だった
働こうと毎年思ってるし、来年の目標も働くことだが、
まあ、せめて、無為にすごすよりは本読んだり、アニメとか見て自分の興味を押し広げたりしたいと思う
性欲衰えたかと思ったけど、まったくそんなことなかった。常にセックスしたいと思ってる

2016年

年の初めは税金が自分の口座から払えなくなることがずっと嫌でそれを親になかなか言い出せずにいたけども、それも今はなれてしまって何とも思わなくなってる、
本は何冊か読んだ、『宇宙クリケット大戦争』『トーマの心臓』『銃・病原菌・鉄』『カンバセイション・ピース』『あまたの星、宝冠のごとく』『少女地獄』、
ヴェイユの『重力と恩寵』も途中まで読んだがむずかしくて、好きだけども、結局読まずじまいになってる、『ツァラトゥストラはこう言った』もそう、あまり興味がなくて全然読んでない。
手もとに未読の本があまりなくて、残っているのが後回しされてきた本だから、むずかしいとか、興味が失せたとか、何らかの理由があるし、それで読書のペースがさらに落ちた。
1月か2月あたりに続けてみた、魚や釣りの夢が印象的だった、
あとはtwitterのアカウントを作ったこと。ゲームのためだけども、アカウント作ってからはだいたい毎日みてる。

色々ゲームに手をだして、すぐにやめてしまったり。

夏にポケモンGOが出て、それを口実に色々と出かけたり、外食したり、夜歩くルートが変わったり、それは家族との思い出だ。祖母が死ぬかもしれないと思っていて何度か祖母に会った、飼い猫も夏場に食欲がなくて死ぬんじゃないかと不安だったが、生きてる。

 

詩や装飾もないし、最近は煩わしくて面倒な考え方も減った

2015年

年末

年が始まる前はとにかく免許の更新だけは絶対に行かねばと思って気が重かったが、実際、それ以上のことが起こったりして、なんかもう、どうでもよくなっていた
一番初めに外へ出たのが母親のお見舞いだった。それから一年が始まった、
母親の再診にもついていったし、また夜に歩きたいねという話になって、母親と夜に歩くようになった。
五月に私の胸が苦しくなり、(右肺、自然気胸)手術のために入院する。生命というか、これまでになかったほどの欲求に満ちて、退院してからかなり上向きになったと思う
例年になく外食へ行った(それでも少ない)、週末に家族と、おもに母親と買い物に出るようになった
外出することへの抵抗が去年に比べてだいぶ減ったと思う、それでもすこし時間があくと落ちこむことに変わりないが
家族との時間や会話がふえた、墓参りへいったり、祖母に会ったり、山に登ったり。
生活、地上の生活。入院の時期くらいから半年かけて「カラマーゾフの兄弟」を読んだ。イワンの"地上の生活"というワードがひびく。それにアリョーシャのことも考える
家族との会話がふえたことによって、十干十二支、占いの話を聞いたり、
父親のここ数年での変化というか、それは成熟に近いものがあるのだと思った、
だがやはり私は私であって、山に登っても、唯一、アリョーシャを思う
家族や宗教は"それ"としてあるもので、選ぶこともなければ知識でもない
今年の一冊といえば、生活という話といえば、私は犀星の「蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ」をあげる
どうでもよくなったというか、どうにでもなれという感じで捨て鉢だったし、病気のことに
ついても『われはうたえどもやぶれかぶれ』に通ずるところがあった。『われはうたえどもやぶれかぶれ』は犀星のほかの作品とは色が違い、死の淵で、きわめて生活的に描写される。それがすごく重なった
どうでもよくなった。些細なことを気にしなくなった、変わったと思う、思想的に大きく変わった
ある種の活力、マグマ的エネルギーは穏やかになった、沼に沈んでいくような感覚に飽きたのだと思う

今年にかぎらず、ここ一二年は車に関係した夢に取りつかれている
胸が苦しくなるほんの数日前、不慣れながら車を運転していて赤信号、交差点で止まると大きな地震が来て車が揺れだすという夢
車の運転の練習をする夢も見るし、駐車の練習も見た、それからスピード違反で捕まる夢も
あとは、家族がとめた車を私がさも先生かのように線内にきちんと収まったかチェックする夢
ほかにも印象的な夢がいくつもある、入院中に、手術が終わってだいぶ楽になってから、射精して大量のどろどろの精液にまみれる夢を見た
性のことも引っくるめて生命や活力といったものを感じた
それと、寺の夢も、父親の、建立中の寺を私が踏みつぶす、
で、私はその後どうなるか分かっていて、やはり父親はふたたび寺の建立に手をつける、そうして私はもう一度寺をこわす、今度は父親はどうするかという夢
私のせいだというのか、私がいなければと思うのか


かなり楽観的だと思う、いずれ好転するだろうと思っている