揺籃

生きてることをつなぐため

2015年

年末

年が始まる前はとにかく免許の更新だけは絶対に行かねばと思って気が重かったが、実際、それ以上のことが起こったりして、なんかもう、どうでもよくなっていた
一番初めに外へ出たのが母親のお見舞いだった。それから一年が始まった、
母親の再診にもついていったし、また夜に歩きたいねという話になって、母親と夜に歩くようになった。
五月に私の胸が苦しくなり、(右肺、自然気胸)手術のために入院する。生命というか、これまでになかったほどの欲求に満ちて、退院してからかなり上向きになったと思う
例年になく外食へ行った(それでも少ない)、週末に家族と、おもに母親と買い物に出るようになった
外出することへの抵抗が去年に比べてだいぶ減ったと思う、それでもすこし時間があくと落ちこむことに変わりないが
家族との時間や会話がふえた、墓参りへいったり、祖母に会ったり、山に登ったり。
生活、地上の生活。入院の時期くらいから半年かけて「カラマーゾフの兄弟」を読んだ。イワンの"地上の生活"というワードがひびく。それにアリョーシャのことも考える
家族との会話がふえたことによって、十干十二支、占いの話を聞いたり、
父親のここ数年での変化というか、それは成熟に近いものがあるのだと思った、
だがやはり私は私であって、山に登っても、唯一、アリョーシャを思う
家族や宗教は"それ"としてあるもので、選ぶこともなければ知識でもない
今年の一冊といえば、生活という話といえば、私は犀星の「蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ」をあげる
どうでもよくなったというか、どうにでもなれという感じで捨て鉢だったし、病気のことに
ついても『われはうたえどもやぶれかぶれ』に通ずるところがあった。『われはうたえどもやぶれかぶれ』は犀星のほかの作品とは色が違い、死の淵で、きわめて生活的に描写される。それがすごく重なった
どうでもよくなった。些細なことを気にしなくなった、変わったと思う、思想的に大きく変わった
ある種の活力、マグマ的エネルギーは穏やかになった、沼に沈んでいくような感覚に飽きたのだと思う

今年にかぎらず、ここ一二年は車に関係した夢に取りつかれている
胸が苦しくなるほんの数日前、不慣れながら車を運転していて赤信号、交差点で止まると大きな地震が来て車が揺れだすという夢
車の運転の練習をする夢も見るし、駐車の練習も見た、それからスピード違反で捕まる夢も
あとは、家族がとめた車を私がさも先生かのように線内にきちんと収まったかチェックする夢
ほかにも印象的な夢がいくつもある、入院中に、手術が終わってだいぶ楽になってから、射精して大量のどろどろの精液にまみれる夢を見た
性のことも引っくるめて生命や活力といったものを感じた
それと、寺の夢も、父親の、建立中の寺を私が踏みつぶす、
で、私はその後どうなるか分かっていて、やはり父親はふたたび寺の建立に手をつける、そうして私はもう一度寺をこわす、今度は父親はどうするかという夢
私のせいだというのか、私がいなければと思うのか


かなり楽観的だと思う、いずれ好転するだろうと思っている